2026年02月27日
材料,プロセス技術,自動車・モビリティ関連企業
マテリアル、半導体、AI、量子――未来をかたちづくる技術の研究開発をけん引してきた、デンソー先端技術研究所・所長の伊藤みほ氏。「問いを描き、価値を創る」ことを軸に、個と組織の専門性と多様性を活かす研究所づくりに取り組んできました。そんな伊藤氏は、RISE-Aが目指す“共創の未来”に、どんな産業の姿を重ねているのか。その歩みと思想から、半導体産業の新たな展望をひもときます。
――まずは、伊藤さんのキャリアの歩みについて教えてください。
大学では化学を専攻し、就職先は地元・愛知県で自宅から通える会社を中心に探していました。ただ、昔から「新たな価値を生み出し、世の中に貢献したい」という思いが強かったこともあり、そうした視点も大切にしていました。
そんな中で出会ったのが、デンソーの社是にある「研究と創造に努め 常に時流に先んず」という言葉です。化学の知識をどう活かせるのか、正直見えていませんでしたが、この会社なら自分なりの挑戦ができるかもしれないと感じ、1994年に日本電装(現・デンソー)に入社しました。
――当時はどのような仕事に携わっていたのでしょうか?
入社後は研究開発部門に配属され、最初に手がけたのはEV(電気自動車)向けリチウム電池の開発です。具体的には、電解質の難燃化や、バッテリーの劣化を抑えるための研究に取り組んでいました。
当時は、女性が長く働き続けるロールモデルがほとんどおらず、「まずは5年続けられれば」といった気持ちでスタートしました。実際、出産や育児を経て復職する女性研究者も非常に少ない時代だったんです。
ただ、研究を進める中で「自分の化学の知識がこんなにも役立つんだ」と実感し、いつの間にか仕事そのものに夢中になっていました。出産後も研究を続けたいという情熱は消えず、育児休業から7カ月で復職する道を選びました。自分でも驚くほど、研究の現場に魅了されていたのだと思います。
――研究開発の仕事に、どのような魅力を感じていましたか?
実は、私の夫も同じデンソーに勤めており、エンジン部品の設計を担当しています。設計の仕事は、完成品としてクルマに実装されるため、自分の成果が「目に見える形」で社会に出ていきます。一方で、私が携わってきた研究開発は、成果が製品や社会に実装されるまでに時間がかかり、すぐに反応が返ってくるわけではありません。
ただ、そうした長い時間軸で未知のテーマに挑み、新しい価値を創造していくプロセスに、大きなやりがいを感じていました。そのため、当時は迷うことなく、研究者として専門性を磨き続ける「スペシャリスト」の道を志していました。
――スペシャリストを目指していた中、先端技術研究所の所長という組織を束ねるポジションにキャリアを進めたのはなぜでしょうか?
当時はスペシャリストを目指していたため、会社に勤めながら博士号も取得しました。ただ、ちょうどその頃から、マネジメントの役割も少しずつ任されるようになり、視野が大きく変わっていったんです。
マネジメントはある意味、答えのない哲学に近い領域だと思っています。私はサイエンスが好きですが、それと同じくらい人も好きだったため、結果的にその方向に適性があったのかもしれません。
一方で、課長として現場をまとめていた時期は、スペシャリストとしての道を捨てきれず、何度も葛藤がありました。ただ、一人よりもチームで進んだ方が、より大きな成果を生み出せるという手応えも強くなっていたんです。
会社にも「粘り強く、集団で価値を生み出す」という文化が根づいており、自分もその中で自然と、組織を支える側の役割に魅力を感じるようになっていきました。2021年に研究所の所長に任命されたときは、正直「なぜ私が?」という戸惑いもありました。しかし今は、この立場だからこそ生み出せる価値があると考えています。
――伊藤さんが管掌する先端技術研究所の役割や、半導体との関係について教えてください。
私たちの研究所は、1991年に半導体やマテリアル(材料)、人工知能(AI)、人間研究などの基礎領域に取り組む目的で設立されました。その後、時代の変化に応じて「基礎研究所」から「先端技術研究所」へと進化し、現在では量子分野も含め、未来に向けた価値創出に取り組んでいます。
中でも近年は、半導体領域の重要性が高まっており、2020年には(株)トヨタ自動車様と弊社が両社の半導体開発部門を統合した「(株)ミライズ テクノロジーズ」が設立されました。その本社機能が私たち研究所の建物内にあり、半導体は非常に身近で、日常的に連携する領域となっています。
半導体は、分子や原子といった最小単位のマテリアルから成り立ち、それらを制御する役割を担うのが AI などのソフトウェアです。私たちは「素材」と「制御技術」の両面から研究を進め、さらにそれらをどのようにデバイス化・システム化し、最終的に製品として社会に実装していくか。この一連のプロセスの中で、すべての研究テーマが有機的につながっているのです。
――技術や社会の前提が大きく変わる中で、研究所の役割や求められる姿勢にも変化はありますか?
かつての自動車業界は、右肩上がりの成長を前提とした時代でした。将来の技術ニーズも、「この時期に、こういう技術が必要になる」といった形で、お客さまから示されることが多く、ある程度、見通しが立てやすい環境だったんです。
しかし現在は、社会やテクノロジーのあり方そのものが大きく変わり、モビリティは単なる移動手段ではなく、社会インフラの一部として、さまざまなサービスやネットワークとつながる存在になっています。その中で、クルマを中心とした価値提供にとどまらず、「社会全体の中でどのような役割を果たせるか」が問われるようになってきました。
こうした変化の中では、お客さまも明確な正解を持ち得ない時代になっています。これからは、私たち自身が独自の視点で未来を構想し、その姿を提案していく姿勢が求められているんです。研究所の役割も、「与えられた課題に応える場」から、「新たな問いを立て、価値を創り出す場」へとシフトしていると感じます。
――そうした変化に対して、現在はどのような取り組みを進めているのでしょうか?
現在は、私たちの専門的な知見に加え、異業種の方々の視点も積極的に取り入れながら、「これからの社会に本当に必要とされるものは何か」「研究所がこれまで培ってきた競争優位性をどう活かせるか」といった問いを起点に、新たな価値創出に取り組んでいます。
たとえば、2035年や2040年といった将来を見据えて、「この技術とこの発想を掛け合わせたら、どんな社会の姿が描けるか」といった構想を、自分たちで描き、仮説を立てるようになってきました。
もちろん、その未来像が正しいとは限りません。そのため、お客さまとの対話を通じて、仮説を検証し、磨き上げていく。こうしたアプローチは、私が所長に就任して以来、特に力を入れて取り組んできたことのひとつです。
――長年研究開発に携わる中で、伊藤さんは半導体をどのように捉えていますか?
自動車の世界において、半導体はもはや「頭脳」であり、「神経」であり、「心臓」とも言える存在です。情報を取り込み、判断し、動作へとつなげる――その一連のプロセスの中心にあるのが半導体です。
エンジン車であっても、制御系統に半導体がなければ動きません。さらに、高度運転支援の領域では、センサーやカメラが取得する膨大なデータをリアルタイムで処理・制御する必要があり、その根幹を支えているのもやはり半導体です。
そして今や半導体は、エネルギーや医療、通信、日常の生活インフラなど、あらゆる分野に不可欠な技術となっています。現代社会を支える「基盤技術」として、その重要性は今後さらに高まっていくと感じています。
――社会全体で半導体の重要性が増す中、日本の研究開発はどう変わっていくべきだと思いますか?
日本には、研究開発の現場で立場を越えて“協働する文化”が根付いています。実際、大学や企業の研究者同士が上流段階から対話を始めると、想像以上に議論が広がり、そこから自然と新しいネットワークが広がっていくんです。
これから日本が技術革新をさらに加速するためには、そうして育まれた信頼関係や横のつながりを、いかに事業化へとつなげていくかだと思います。この挑戦の積み重ねが、日本独自の連合のあり方や、次世代の競争力へとつながっていくのではないでしょうか。
――そうした変化を実現するうえで、何が求められていると考えますか?
近年、海外ではM&Aをはじめとする大胆な意思決定が進み、エコシステムそのものの構造に変化をもたらしていると感じます。日本においても、AIを自然に使いこなすネイティブ世代の台頭によって、より柔軟で戦略的な連携が生まれ、これまでにない価値創出の連鎖につながっていくかもしれません。
自動車業界でも、すべてを自社で完結させる時代はすでに過去のものになりつつあります。これからは、各社が自らの強みを持ち寄り、ともに研究・開発しながら、事業化まで一体となって進めていくことが求められているんです。
私たちの研究所も、まさにこの流れを推進するために、オープンイノベーションを軸に新たな取り組みを進めています。こうした動きは、RISE-Aの活動とも深く通じていると考えています。
――伊藤さんは、RISE-Aにどのような可能性を感じましたか?
RISE-Aの取り組みを見たとき、「これは日本が変わるきっかけになるかもしれない」と感じました。半導体の世界は、プロセスごとに企業の役割が分かれており、クリーンルームのように外からは見えにくい――その構造自体が、他の業界の方々にとって心理的なハードルや閉じた印象を与えていたのだと思います。
だからこそ、RISE-Aのように、異なる業界や専門性を持つ人たちが集まり、学び合い、交わることのできる「開かれた場」には、これまでにない大きな意味があります。
半導体は、素材や設計、ソフトウェアなどさまざまな技術の集積であり、同時に、あらゆる産業がその恩恵を受けるユーザーでもある。そんな多様なプレイヤーが一堂に会することで、これまでにない新たな価値や産業が生まれる——RISE-Aは、まさにその変化の起点となる存在だと考えています。
――共創を成功させるためには、何が必要だと思いますか?
多様な領域の人々が集う「開かれた場」があることは、共創に向けた大きな一歩です。しかし、真に価値のある成果を生み出すためには、オープンな議論だけでなく、その先の実装フェーズまでを視野に入れた継続的な連携が欠かせません。
RISE-Aが目指すのは、単なる交流の場ではなく、異分野の知や技術が深く交わり、新たなエコシステムを築いていくこと。その全体像はまだ見えていない部分もありますが、試行錯誤を重ねながら形づくられていくプロセス自体に、大きな可能性と面白さがあると感じています。
将来的には、半導体を中心とした産業構造そのものがよりしなやかに、より開かれたかたちへと進化していく。そうした未来を実現するうえで、RISE-Aが果たす役割は非常に大きいと期待しています。

――最後に、エバンジェリストとして、RISE-Aでどのような役割を担いたいと考えているか、教えてください。
私は、イノベーションを起こすうえで、ダイバーシティは欠かせない要素だと捉えています。性別に限らず、年齢や職種、業界、価値観など、異なるバックグラウンドを持つ人たちが交わることで、想像もしなかった気づきや発想が生まれ、次の一歩につながっていくのだと思います。
(ダイバーシティというと性別・年齢などの属性が注目されがちですが、本質は“個性の違い”が生む化学反応だと思っています。)
これまで私は、性別を強く意識することなくキャリアを歩んできましたが、その経験を通じて実感したのは、「属性」よりも「個性」をどう活かすかが重要だということです。そういった意味で、私の役割の一つは、“少し変わった存在”として場に加わることかもしれません(笑)。
「エバンジェリストにこんな人もいるんだ」と思ってもらえたら、これまで半導体業界に距離を感じていた方々も、少しだけ足を踏み入れやすくなるかもしれない。そんなきっかけをつくれたら嬉しいですね。
異なる個性が出会い、交わったときに生まれる“化学反応”を、私自身も楽しみにしています。そしてその反応を起こす力は、皆さん一人ひとりが持つ個性にあるはずです。ぜひRISE-Aという場で、自分なりの視点や関わり方を試してみてください。
伊藤 みほ Miho Ito
現職・役職
株式会社デンソー 上席執行幹部 先端技術研究所 所長
略歴・キャリア
1994年に日本電装(現デンソー)入社、一貫して機能材料に関する先行研究開発に携わる。 2006年、自動車用排ガスセンサに関する量子論的研究で東北大学大学院工学研究科にて博士号取得。 2007年以降、課長・室長・部長として研究マネジメントに軸足をシフトし、 2021年より、先端技術研究所長として、マテリアル、AI、HMI等の先端技術研究全般を統括。現在、名古屋大学 未来社会創造機構 客員教授も務める。